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2017年4月 4日 (火)

上高地線の新村駅

昭和10年ころ撮影の波田駅と平成24年撮影の新村駅
まるで双子のようです。

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明治5年に新橋横浜間に鉄道が敷かれ(信州人ある糸屋平八が出資)
それまで1日かけて歩いていたのが1時間足らずで移動できるようになり
汽車の「時刻」というものにより、
それまで一刻(いっとき:約2時間)、最小単位でも小半刻(こはんとき:約30分)が
日本人の時間の観念の最少単位であったものが分刻みとなり、
日常生活に時計というものが必要になったのも鉄道の延伸に関わるのだという。
「へぇ~」

幹線は国主導で、都市間や地方の連絡路線などは民間主導で鉄道が敷かれて行く中で
国は鉄道施設の「標準化」を図るため、駅舎や付属施設の『標準図』なるものを明治31年に出します。
その後にも何年かごとに標準図が作られますが、大きな変遷は無かったようです。

新村駅も、標準図を参照に造られたと思われます。私鉄では、その地方色や経営者の「好み」で
国鉄には少ないデザインが取り入れられます。
上高地線も、羽目板張りにペンキ塗りの洋風色を意識したデザインを取り入れたようです。
明治35年に松本まで鉄道が通ってきてはいたものの、まだまだ新しいハイカラなもの、という
意識が強かったからでしょう。本社のあった新村駅は、中でも洋風色が強いデザインでした。
波田駅や森口駅も基本的には同じデザインテイストですが、新村駅だけは
待合室の天井が実(さね)部分がかまぼこ型にデザインされた羽目板張りにペンキ塗り、
照明の中心飾りがあり(車寄せの天井にも)、
出札窓口や手荷物扱い窓口も彫物のある縁で飾られ、破風板には飾りがつき、
差し掛け下屋の妻壁部分にはアールを取り入れたデザインのパージボードが取り付けられ
車寄せの上には社章を取り入れたマーク飾りがついていました。
駅というものは、単なる通過点ではなく、待合室は情報交換の場であり交流の場でもあり
約100年という間、地域の人々に愛着を持って使われてきたのだと思います。
解体されてしまったことは残念ですが、記録保存調査というお仕事をいただき
いろいろ勉強する機会が持てました。
だからこそ余計残念に思うのかしら・・・。

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